ポール・ラッシュ博士が大好きだった風景は、清泉寮から見る富士山です。素晴らしい施設に出来上がっている清泉寮には、ポール・ラッシュ博士が好きだった光景が今もそのまま広がっています。
清泉寮という名前が気になるところですが、清泉という名前を付けたのはこの場所を視察にやってきた立教大学の高松教授司祭です。「キャンプは【清】里から上るが、地番は大【泉】村。両方とって清泉寮にしたらどうか。」という提案で「清泉寮」となりました。
高原野菜で知られる清里高原ですが、開拓される前は火山斜面が標高1,000メートルから1,900mにわたっていて原野が広がっている状態でした。火山斜面で栽培できるのは雑穀の粟・ヒエ・ソバ・もろこしなどでしえた。あとはライ麦や大豆といった自給用作物でした。土壌を少しでも改善させるために石灰をまいたりしましたが、効果はほとんどない状態で開拓に入植した人たちの中には、栄養失調で倒れる人も多くいました。
そしてこのような状況の時に、ポール・ラッシュ博士もキリスト教を日本に普及するための青年リーダーを清里で訓練したい。という思いがあって、山梨県庁と用地交渉を1936年(昭和11年)の暮れぐらいから行っていました。富士山が大好きなラッシュ博士ということもあって、最初は富士五湖あたりでの用地取得を希望していたようですが、適した地がなかったことから八ヶ岳南麓にある山梨県の県有地が1938年(昭和13年)1月から1940年(昭和15年)3月末までの期間で貸与ことになりました。
清里から八ヶ岳の壮大な景色と真正面からみる富士山の神々しい姿を初めて見たラッシュ博士は、見た光景の素晴らしさに口が開かなかったといわれているます。貸与された土地で青少年を訓練するキャンプの拠点になったのが、清泉寮です。
120ヘクタールの開墾に着手したのは1936年(昭和11年)8月13日からです。第二次世界大戦中にラッシュ博士は、アメリカへ帰国しますが戦後の1946年(昭和21年)にGHQ将校として日本へ再来日を果たします。そしてラッシュ博士が再来日を果たした翌年に、山梨県知事の善意で約300ヘクタールの県有地が貸与られます。それはモデル農村コミュニテイー用地としてでした。
そして設立されたのが「清里Kiyosato教育Educational実験Experiment計画Project」つまりKEEP協会の設立です。そしてKEEP協会の拠点として清泉寮がつくられました。
第二次世界大戦後の日本では、清里のような標高の高い土地で冷地を開拓する場合雑穀作りをすることが開眼の目的でした。そのため火山斜面で栽培されていたのは雑穀ばかりで、入植者たちは栄養失調でたくさん倒れていた有様でした。ところがポール・ラッシュ博士は違いました。高冷地にふさわしいのは酪農だという直感があったので、農林省から当時の金額で50万円の融資を受けて60頭の乳牛を飼育することを始めます。なかなか良い種牛がいなかったため、あまりうまくいきませんでたが畑作物も大きな転機となることがありました。それは霜被害です。1953年(昭和28年)に霜被害で畑の作物はほとんど全滅状態という大きな被害に見舞われました。この畑作物の大被害で、農家も転機となって酪農へ転換することになりました。
清里も観光を資源にするべく、整備が進められていきます。登山道が整備されたほかに、山梨県営でキャンプ場やスキー場などがオープンしています。清泉寮は清里観光の拠点となって、宿泊施設だけではなく、キープ自然学校などの合宿施設もあります。自然から学ぶ自然学校やオリジナルキャンプといぅった自然体験プログラムなどが開かれていて、幅広い年代が楽しく有意義な時間が過ごせるプログラム内容が四季に応じて揃っています。