陸軍を退役してポール・ラッシュ博士は精力的に活動します。太平洋戦争で日本はかなりのダメージを受けました。そしてアメリカは敵国だ!と太平洋戦争中にキリスト教も、日本の軍部から弾圧されました。立教大学もや日本聖公会も弾圧を受けていたので、復興することにポール・ラッシュ博士は尽力します。聖路加国際病院やアメリカンフットボールの再生することにももちろん尽力されています。
敗戦国になった日本を立ち直せようと、それも民主的に。。ということで、日本人が自立して暮らせるように支援する方法として考えたのが、若い世代への教育そして安全な食が不可欠とポール・ラッシュ博士は考えます。そこで農村プロデュースしてみたらどうだろう?!と考えます。
日本人は米を主食として食べますが、高地ということもあって米作に適さない清里に適したものはないものか?!ということで、酪農や西洋野菜を栽培することで、生計をたてれるように開拓支援をしました。清里を開拓したのはダム建設のために住んでいた土地を出て行かなくてはいけなかった人たちが開拓に携わりました。
そして酪農を中心にして高冷地農業を実験的に開始して、ポール・ラッシュ博士が設立したのがキープ協会です。キープ協会と言う名前はKiyosato Educational Experiment Projectつまり清里教育実験計画の頭文字を取ってKEEPとなっています。
清里だけではなく、日本全国に農村モデルとして高冷地実験農場や農民図書館、農村診療所、農業学校などをキープ協会は設立してきました。清里でもキープ農場がありますが、ポール・ラッシュ博士が作ったときには高冷地実験農場として作ったので農業学校ですが、現在は体験学習のための施設となっていて、ジャージー牛が飼育されています。
キープ協会が清里で一番最初に建設した建物が教会です。清里聖アンデレ教会という名前で石造りの教会ですが、この教会には図書館が併設されています。そしてこの教会の納骨堂にポール・ラッシュ博士の遺骨が安置されていますが、無償で日本の社会事業に取り組まれました。
日本とアメリカの民間交流の手本となり、お金儲けをするわけでもなく戦後の日本が復興するための道筋をつけられました。私利私欲で働いていたわけではないので、身の回りの財産といえば聖書と万年筆、パジャマと歯ブラシという質素な暮らしでした。ポール・ラッシュ博士の82歳の人生の中で、大きな喜びそして最大の栄誉になった出来事があります。それはポール・ラッシュ博士がお亡くなりになる直前に、イギリスからイギリス国教会の大主教のカンタベリー大主教が、病床にいたボール・ラッシュ博士をお見舞いするために清里にこられた時ではないでしょうか。
カンタベリー大主教から、神の栄光を地上に顕したことそして人類への奉仕を言われたボール・ラッシュ博士は、大きな喜びに包まれたことでしょう。GHQで再来日を果たしてから、日本の復興と清里の開拓と大活躍されたボール・ラッシュ博士は1979年(昭和54年)に聖路加病院で82歳でお亡くなりになりました。
「ポール・ラッシュ祭」というラッシュ博士の名前が付いているフェスティバルがあります。ラッシュ博士が在命中に収穫感謝祭として1954年(昭和29年)に始めたお祭りですが、中段していていた時期もありますが、ラッシュ博士が清里にこられて50周年を記念して、「ポール・ラッシュ祭から八ヶ岳カンティフェア」としてフェスティバルが復活しました。1年の収穫に感謝して、そして八ヶ岳南麓で生活する人たちとの交流そして国境を超えての交流というお祭りです。
ラッシュ博士が清里を開拓しよう。と目をつけてくれたからこそ、清里はすばらしい高原になり緑豊かな自然美あふれる観光地になりました。そして高原野菜に酪農と、高地に適した農業を探してくれたことに深く感謝です。自分の私欲のために働いたというのではなく、やるからにはベストを尽くして他の人が見本とするような一流のものを・・というラッシュ博士の理念があればこそです。
博士が生涯をかけた社会事業は、清里の礎になっています。ラッシュ博士は自分自身の理念【Do Your Best! It must be first class】をそのままに実行され、次世代を担う若者たちにもこの理念を伝えていらっしゃいます。