清里高原を観光する拠点になる「清泉寮」はNPOの地域活性化支援センターが主催している「恋人の聖地」として認定されています。この「恋人の聖地」の発表が一番最初にあったのが、2006年(平成18年)4月19日なので、「清泉寮」が認定されたのは9月なので比較的早い段階で「恋人の聖地」として認定されました。
清里と清泉寮
火山性斜面が広がる原野が「恋人の聖地」として認定されるとは、開拓した当時には夢にも思わなかったと思います。八ヶ岳・富士山そして南アルプスの眺望と、見事な広がりを見せる高原が観光客を楽しませてくれます。
清里歴史に清泉寮はふかーく係わっています。清里を代表する観光地でもある「清泉寮」にはたくさんの人々が訪れます。バブル時にはメルヘンに向かいましたが、清里でみる自然の風景は見事で雄大です。北海道に行かずに雄大な景色が、首都圏から近いアクセスで訪れることができるのもかなり嬉しいです。「清泉寮」がどのような歩みを進めてきたのかまとめてみます。
清泉寮の歴史
- 1897年(明治30年)11月25日・・・清里開拓の父となるポール・ラッシュが、アメリカ合衆国のインディアナ州フェアマウントで誕生しました。育ったのはケンタッキー州ルイビルです。
- 1925年(大正13年)・・・1923年(大正11年9月1日)に発生した関東大震災で、東京と横浜のYMCA開館が崩壊したことをうけて、国際YMCAから派遣された形でポール・ラッシュが初来日しました。
- 1926年(大正14年)・・・日本聖公会系の大学、立教大学にポール・ラッシュが教授として教鞭をとることになります。元々アメリカ聖公会系宣教師が設立した立教学校が母体で1922(大正11年)に立教大学は設置されました。
- 1933年(昭和8年)7月27日・・・「小海南線」の距離17.5区間となる小淵沢⇔清里間が開業しました。
- 1936年(昭和11年)・・・山梨県庁へポール・ラッシュが研修施設のための用地交渉に取りかかります。
- 1938年(昭和13年)・・・清泉寮が完成しました。として小河内ダム建設(現:奥多摩湖)に伴い、ダムにより水没する住戸28戸の住民62人が八ヶ岳山麓の念場ヶ原に入植しました。
- 1942年(昭和17年)・・・第二次世界大戦中ということになり、敵国となったためポール・ラッシュがアメリカに強制送還されました。
- 1945年(昭和20年)・・・日本が第二次世界大戦で敗戦。ポール・ラッシュがGHQの将校として再来日を果たしました。
- 1947年(昭和22年)・・・KEEPの原点となる高冷地へ農業を導入するための実験プロジェクトが始まりました。
- 1948年(昭和23年)・・・キープ協会が設立されました。
- 1958年(昭和33年)・・・清泉寮が再建されました。
- 1979年(昭和54年)12月12日・・・聖路加国際病院で、ポール・ラッシュが82歳で逝去しました。
- 2005年(平成17年)8月・・・清泉寮とポール・ラッシュ記念センターへ天皇皇后両陛下が行幸されました。
- 2006年(平成18年)9月・・・清泉寮が恋人の聖地として認定されました。