避暑地として真っ先に名前が登場するのは「軽井沢」です。世界的大スターのジョン・レノンが毎年夏になると軽井沢を訪れて滞在していたことや、テニスコートで知り合いになられた美智子皇后と天皇陛下の出会いも軽井沢です。カナダ人宣教師が1886年(明治19年)にたまたま軽井沢を訪れたことがキッカケです。そしてそれから2年後別荘を建てて避暑地としての「軽井沢」が始まります。
清里の方はどうかというと、こちらも宣教師が開拓したのであります。清里開拓の父と呼ばれるのは、ポール・ラッシュというアメリカ人宣教師です。アメリカ人宣教師のポール・ラッシュが1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災でキリスト教青年会(YMCA)の拠点も被災したため、立て直すために関東大震災から2年後の1925年(大正14年)に国際YMCAから派遣される形で初来日しました。
ポール・ラッシュ博士はケンタッキー出身のアメリカ人です。国際YMCAから関東大震災で被災した東京・横浜のYMCAを再建する目的で日本へ初来日したポール・ラッシュ博士はその後、キリスト教日本聖公会の主教からの依頼で立教大学で経済学や英語の教授として教鞭をとります。ボランティア精神と開拓者精神に溢れた活動的な博士だったことが伺えるエピソードはたくさんあります。
立教大学で教鞭をとりながら、聖路加国際病院を建設するために募金活動をお手伝いしたこともあります。また日本にアメリカンフットボールを普及させたのもポール・ラッシュ博士です。1934年(昭和9年)に東京学生アメリカンフットボールを設立しています。ポール・ラッシュ博士の貢献を称えて「日本アメフトの父」と呼ばれ、現在もアメリカンフットボール日本一を決めるライスボウルでのMVPにはポール・ラッシュ杯を授与して博士の栄誉を称えています。
そして1939年(昭和13年)に青少年の訓練用キャンプとして清里に清泉寮を建設しています。今でも清泉寮はあって清里といえば清泉寮のソフトクリームと言われるほどの清里名物になっています。ポール・ラッシュ博士は精力的に活動をなさっていましたが、1941年(昭和16年)に太平洋戦争が開戦したことで、アメリカ人のポール・ラッシュ博士は敵国人と日本政府から見なされて博士は日本に残ることを希望していましたが、その希望は叶わず日米交換船に乗船してアメリカへ帰国します。
アメリカに帰国したポール・ラッシュ博士は、日本に滞在していた経験が変わられてアメリカ陸軍情報部の語学学校人事課長になります。日系二世軍人へ日本語を教えたりと太平洋戦争中過ごしていました。そして戦争が終わって再び日本の地へ足を踏み入れるのは1945年(昭和20年)9月10日のことです。
再来日を果たした時は、GHQの民間情報局に所属して文書の編集課長をしていました。太平洋戦争での日本人戦犯リストを作成したりしていましたが、戦犯リストを作成するよりも、頼まれもみ消す免罪にかなり係わっていたようです。そして赤狩りの一環として日本共産党についての情報収集を行ったり、ゾルゲ事件の調査などにも携わりました。
そして1949年(昭和24年)に陸軍を中佐の階級で退役します。陸軍を退役してからますます精力的にポール・ラッシュ博士は活躍します。博士の活躍があってこその清里です。